TIME,FLIES,EVERYTHING GOES

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矛は盾を破るか、あるいは矛は盾に向いているか-「宇崎ちゃんは遊びたい」を踏まえた環境型セクハラについての小論

ここ一週間、以下のツイートがTLを賑わせました。

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(当該ツイートは削除済。ツイッターより引用)

弁護士の太田啓子氏(@katepanda2)が、日本赤十字社献血キャンペーンの一環でコラボした「宇崎ちゃんは遊びたい」のポスターについて「女性キャラクターを性的に消費するものである」として批判する内容のツイートです。大本のツイートについては以下の記事が明るいようです。

bunshun.jp

 

かねてから「オタクvsフェミニスト」の文脈で意見が対立することは多々ありましたが、今回もその例に漏れず「フェミニストが声をあげ、オタクがその倍声を上げる」という構図は変わらないようです(ここでいう「フェミニスト」はあくまで総称としてのもので、揶揄する意図はありません)。多くの場合、オタクの描くイラストやそれに対して批判的な意見は「このイラストは性的に誇張された表現であり、女性を性的に消費するものである」「これらのイラストが許容される社会は女性を軽視・蔑視したものであり、批判されるべきものである」というものです。

誤解を恐れずに言うと、こうした意見の根本は間違っていないように思います。日本社会で生きていくのは、少なからず男性社会で生きていくことであり、女性であることで不利益を生じることが多々あります。女性が生きていく上で困難な出来事は多々あるし、はっきり言って生き辛い社会ではあるだろうな、と思います。今回のツイートについても、「女性を性的に消費している」という意見は「宇崎ちゃんは遊びたい」という作品の中で時折見られる「巨乳」という表現方法に表出しているということもできるかもしれません。これまで批判された「オタク」のコンテンツが、少なからず「女性を性的に消費している」という側面があることは否定できません。

 

ですがーーーぼくが「男性」であり「オタク」であるということを差し引いてもーーーどうしてもこの意見には賛同できないな、と思うのです。

 

こうしたオタクコンテンツに対する批判が生まれるとき、大半の場合は「オタクの意見は間違っている」「こうした表現はなくさなければならない」という文脈で語られるものです。その主張を否定するつもりはありませんが、一方でぼくは「意見や表現をなくすべき」という主張は、大きく間違っている、と思うのです。

フランスの哲学者、ヴォルテールにまつわる言葉に「私は君の意見には反対だ、だが君がそれを主張する権利は命をかけて守る」というものがあります。仮に意見が対立したとしても、主張するという行為自体を否定することを認めてはならない、という文脈でよく使われる言葉ですが、ことこの「オタクvsフェミニスト」の議論に関して、この姿勢はあまりにも軽視されているように思います。すなわち「お前の意見は間違っている、だから糾されるまで糾し続けてやる」という話です。お前を叩きのめしてやる、という姿勢になった瞬間、それは議論ではなく、対決です。対決の場合、相手が死ぬまでそれは終わりません。何かを改善したいと思ったときに対決が発生した場合、それは対決ではなく、殲滅になってしまう、と思うのです。

「女性は大小あれど抑圧されていると思う」「オタクコンテンツでもそういうのはあると思う」ぼくもそう思います。今より改善の余地はあると思います。しかし、それは「女性は抑圧などされていない」「オタクコンテンツはこのままで構わない」という意見を圧殺してのみ存在しうる意見ではありません(極端な話ですが)。批判されがちな極端に身体を誇張した表現や、ややもすれば他者を傷つけるコンテンツは存在します。そしてそれを楽しむ人も、大小問わずに存在します。決して褒められたことではないかもしれませんが、そこには確かに人が存在します。「傷つけられる人」がいるように「傷つける人」がいます。であるならば、そこには「傷つけられた人の権利」と「傷つけた人の権利」があるはずです。同じように守られるべき、とは言いませんが、人は生きていくうえで、最低限の権利が存在するはずで、その最低限のラインに対し、罰こそあれど最低限の権利すら剥奪する権利は、誰も持ち合わせていないのではないでしょうか。

もうひとつ言葉を紹介します。「ありがたいことに私の狂気は君たちの神が保証してくれるというわけだ よろしい ならば私も問おう 君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」これは漫画「HELLSING」に登場する「少佐」の言葉です。吸血鬼と化したナチス残党を率いる詳細は、英国全土を巻き込んだ戦争を画策しています。それを糾弾する英国国教会を始めとする重鎮たちに、少佐はこの言葉を投げかけます。あくまで「正義」を成そうとする英国紳士たちに「悪」であるナチスドイツの少佐がこの言葉を投げかけます。すなわち「お前らが正しいとする根拠は、果たしてお前ら以外の誰が正しいと言ったんだ?」ということです。正義の反対は悪ではなく、またもうひとつの正義です。であれば、世の中に存在すべきでない意見などないのではないか、とも思うのです。

 

これはあくまでぼくの考えですが、今回の件に関して言えば「女性を性的に消費するコンテンツを楽しむことは許されない」という意見と「こんなのは女性を性的に消費するコンテンツにはあたらない」とする意見の対立です。それは双方にとっての「悪」を駆逐する「正義」の戦いであり、原則としてどちらかを駆逐するまでは終わりません。だとすれば、それは双方に対しての殲滅でしかないのです。「正しさ」を主張することは「相手を殺すまで殴りあう」ことではないはずです。

もっと話は単純で「私はこれが不快です」の応酬でしかないのではないでしょうか。それであれば着地点はともかく、着地"すべき"点が「どうすればどっちも不快な思いをしないでいられるのか」に尽きるはずです。無論、それはどちらかにとっての100点の着地点ではないでしょう。「これまで女性は散々譲歩してきた」という意見も最もです(あるかどうかはわかりませんが)。ですが「不快な思いをしない」ということは「相手に対しても利点のある着地点を見つける」ことでもあるのではないかと思います。こうした議論において、着地点を見つけることは相手を叩きのめすことではなく、相手を活かすことである、とぼくは思うのです。だからこそ、フェミニストにとっても、オタクにとっても「まあこれくらいなら」という妥協点を探る作業は、必要なのではないでしょうか。

 

こうして書いてみると理不尽なことを言っている、と思います。ましてやフェミニスト諸兄にとってみれば「加害者」側であるぼくが言うべきではないのかもしれません。ですがぼくは「お前が間違っている!」と叫ぶことより「まあ我慢ならないところではないからいてやってもいいよ」と言うことの方が、よほど建設的な話のように感じられてならないのです。

オンリー ロンリー グローリー -ぼくが夢見りあむを嫌いな理由について

ぼくは、夢見りあむが嫌いだ。

 

世の中は、大別すると「見つかった人」と「見つからなかった人」の2種類に分類されるとぼくは信じている。無論、そこに至るまでの経緯はそれぞれあるとして、その経緯全てを飛び越えて、人から認められるためには「見つけてもらうこと」が必要だ。どんなに素晴らしい才能があったとて、それが「見つからなければ」存在しないのと同義だと思っている。しかし、仮にその才能が見つからなかったとしても、それを良しとできるかどうかが、いわゆる天才と凡人を分ける境目なのかもしれない。その分類で言うならば、ぼくはそれを良しとできなかった凡人だ。

 

小さな頃から目立つことが大好きで、何かと言えば前に出たがり。部長だの学級委員だの、少しでも目立つポジションに行くチャンスがあれば速攻で挙手。西にバンドを組むチャンスがあれば下手なギターを持ってボーカルをやらせろと言い、東に漫才をやる舞台があれば仲の良かった人気者を引きずってネタを書く。そうやって大きな声で「ぼくはここにいるぞ!」「ぼくを見ろ!」と叫んできた。そうして、ほぼ例外なく、ぼくは天才に負け続けてきた。負ける、というとまだ聞こえがいいが、ほとんどの場合は勝負にもなっていなかったように思う。部長や学級委員の投票はいつだって大差で負けるのが目に見えていたし、バンドではぼくよりかっこよくギターを弾く奴がぼくより上手い歌を歌い、漫才では地獄のようなスベり方で全校生徒を沈黙させた。そうしてぼくは、見事に負け犬根性だけを身につけて育っていく。それでもぼくが目立つことをやめようとしなかったのは、ひとえにぼくがぼく自身を諦められず、どこかでぼくのような者を倒してきた、そんな天才たちに一矢報いたいと思ってきたからに他ならない。ぼくのいる狭い狭い世界でなお、少しでも勝利したい、そんなバカなことを大真面目に考えているぼくが、いつか天才よりも褒められたい、認められたい。そんな気持ちだけが、ぼくをーーーーおそらくはぼくしかそう感じていないであろうーーーー戦いの数々に進ませたのである。滑稽な、あまりに滑稽な29年間。それでも、それがぼくを形作ってきたものだ。

 

そこに現れたのが、夢見りあむだった。専門学校にもなかなか行けず、承認欲求だけをぐるぐる膨らませ、ザコメンタルをすくすくと成長させ、オタクの前に現れた。そう、「承認欲求だけをぐるぐる膨らませ、ザコメンタルをすくすくと成長させた」オタクーーーーつまり、ぼくの前に。

 

だからぼくは、クソザコメンタルと「やむ!」の一言を振り回し、「オタク、チョロいな!」とナメたセリフを吐き散らし、なのにそれが面白い、とウケて、シンデレラガールズ総選挙では3位をかっさらって、数多くの声なしアイドル担当Pの怨嗟の声をよそにしれっと声と楽曲を手に入れ、はっきりと人気者の座を手に入れた、夢見りあむが嫌いだ。彼女の吐くセリフひとつひとつが、嫌いだ。なぜって、彼女の言葉は、もしかしたらぼくが言ったことのあるセリフかもしれないから。クソザコメンタルに開き直ったようなことを言いながら、自分が憧れたものを諦められずに、最終的にはそこで勝ち残った彼女の「チヤホヤされたい」は、ぼくが言ったかもしれない「チヤホヤされたい」と、同義かもしれないと思ってしまったから。そんなことを考えるぼくと違って、夢見りあむは彼女と同じような「やみくん」「やみちゃん」たちの、希望になったから。そして何よりーーーー他ならぬぼく自身が、そんな夢見りあむの快進撃に、救われてしまったからだ。もしかしたらぼくも、誰かの希望になれるかもしれない、なんて夢が、見えてしまったから、だ。

 

そんなぼくの大変ちっぽけな、そしてお門違いな嫉妬をよそに、夢見りあむはSSRのカードまで手に入れ、クソザコメンタルをぶら下げて快進撃を続けている。そんな夢見りあむのこれからの快進撃を見てーーーー多くの「やみくん」「やみちゃん」と同じようにーーーーぼくはまた救われ、きっとこう思うのだろう。

 

ぼくは、夢見りあむが嫌いだ。だけど、夢見りあむがこのままてっぺんを掻っ攫って、高らかに笑うところが見たい、と。

ヒーロー見参、そうでなくとも

ヒーロー、と聞いた時、あなたはなにを思い浮かべるでしょうか。一般的にヒーローとはそのまま英雄のことを指します。ぼくにとってもそれは同じことで、他の例に漏れず、ヒーローに憧れてきました。

小さな頃、ぼくのヒーローは「恐竜戦隊ジュウレンジャー」のブルー、トリケラレンジャー・ダンでした。少しお調子ものだけど、いざという時には人一倍の勇気で敵に立ち向かう、トリケラレンジャーはとてもかっこよかった。ああなりたいと思って真似して長い棒を振り回してーーーートリケラレンジャーの武器は槍、トリケランスでしたーーーーシャレにならない怪我をしたり、ハワイにまで連れて行ってもらってパワーレンジャーの子供用スーツを買ってもらって親を呆れさせたり。小さな頃のぼくの写真は、だいたい変身した後のトリケラレンジャーと同じポーズです。

少し大きくなって音楽を聴くようになると、ぼくのヒーローはバンドマンに移り変わっていきます。最初に憧れたバンドマンはブライアン・メイでした。フレディ・マーキュリーの声に負けないギター、かっこよかった。ブライアンが6ペンス硬貨をピックの代わりに使っていることを知って、お年玉でギターを買ったあと10円玉で弾いてみたりなんかして……当然ブライアンのような音が出るはずもなく。どっぷりと音楽に浸かり出すと、ぼくのヒーローはどんどん増えていきます。藤原基央カート・コバーン細美武士後藤正文……彼らのようになりたくて、それはもう真似をして、少しでも近付きたいと思ったものです。「ヒーローになりたい」そんな気持ちを持って、ぼくは大きくなりました。

 

そして大多数の人がそうであるように「どうやらぼくはヒーローではないらしい」ということに気付きます。

 

ヒーローというと大仰ですが、要するに「特別な存在になりたい」「今は違うかもしれないが、やがて特別な存在になりたい」「なれるに違いない」と無条件で信じることができるか、ということだと思っています。ぼくはその特別な存在を信じることができなくなってしまった、と言い換えることもできるでしょう。すなわちそれは、自分が凡庸な、ごくごく平凡な一般人であることを、認めることです。こんなことを言うと「そんなの当たり前だ」「小学生でもわかる」などと言われそうですが、ぼくはこれに気付くまでに随分時間がかかりました。

そうしている間にもぼくのヒーローはどんどん増えていきます。ぼくがやりたかったことを、そしてぼくができなかったことを軽々とこなし、脚光を浴びていく、ヒーロー。ぼくが救えないたった1人を、何百人も救っていく、ヒーロー。ぼくはおそらく、今後の人生で彼らのようになれずに、ごくごく普通もしくはそれ以下の人生を送っていくことになるでしょう。ぼくはヒーローになれませんでした。

 

だけど、ぼくはそれでも、ヒーローになりたい。

 

いや、もしかすると、ヒーローである必要はないのかもしれません。ぼくは、ヒーローになれなかったぼくを救うために、ヒーローになれなかった数多くの人々を救うために、ヒーローになりたいと、強く思うのです。変身できなくても、必殺技がなくても、特別な才能がなくても、誰かを救える人でありたい、そう思うのです。

自分でも矛盾した、滑稽なことを言っていると思います。特別な人になれないぼくは、それでも特別であるということを証明するために生きているのです。それが、誰かを救うことになるのではないかと思うのです。なぜなら、ぼくは、今までヒーローに救われたから。誰かの特別になることが、誰かの希望になることをぼくは知っています。ぼくがしていることか、あるいはぼくが息をしていることか、それが誰かの希望になったら、たぶんそれは、その誰かの希望である以上に、ぼくの希望です。ぼくが願ったことは間違いじゃなかったという証明なのだと、ぼくはそう思うのです。

 

一介のサラリーマンが何を訳のわからないことを、と思うかもしれません。だけどぼくはそんなことを考えながら、今より少しでも何かが変われ、何かが救われろ、そんなことを考えて、張り切ったり病んだらしながら生きている、というお話でした。

 

そのスピードで - マジLOVEキングダムからうたプリにハマったぼくの雑感

ここ2ヶ月くらい、(あくまでぼくの基準なんだけど)どっぷりとうたプリに浸かり続ける日々を送ってきたので、なんだかある意味当たり前のような感覚なのだけどーーーー数えて4回マジLOVEキングダムを観ました(地元で2回、品川で2回)。王様のブランチの映画ランキングでマジLOVEキングダムが出てきたとき、母が「これ、あんた見に行ったやつ?」と聞いてきたので「うん。来週も見に行く」と言った時の顔、見せてあげたい。けどまあ考えてみると当たり前と言えば当たり前の話で、「同じ映画を何回も見に行ってる」って結構すごいことなんではないか、と思いますーーーーオタクコンテンツにおいてはよく聞く話だけど。かく言うぼくも「なんでマジLOVEキングダム何回も見てるの?」と聞かれると、少し答えに窮するところがあります。アンコールの内容は週ごとに違ったりしていますが、言ってしまえば同じ内容の映画を何回も見ているわけですから、疑問になるのも当然と言えば当然です。しかしまあ敢えてそこで考えてみると、マジLOVEキングダムには「ストーリーの分岐点が限りなく存在している」ということができるのではないか、と思うのです。

 

「欠落の美」という言葉をご存知でしょうか。ルーヴル美術館に所蔵されている「サモトラケのニケ」は勝利の女神ニケを象った彫刻として世界的に有名ですが、首、左腕などが欠損しています。作者の意図とは外れたその欠損は、しかし一方でその欠損が、見る者に本来あったはずの完成形を想像させるーーーーだからこそ、その欠損こそが美の象徴である、とするような考え方です。

ちょっと大げさですが、ぼくはマジLOVEキングダムにこれと同じような「欠損」を感じたのです。マジLOVEキングダムは、全編を一本のライブとして構成されています。一般的な映画にある起承転結、あるいは序破急のような構成はありません。ライブ中のMCやセリフなどはありますが、ほぼ全編がST☆RISHQUARTET NIGHTHE★VENSの楽曲で構成されるーーーーそれはすなわち、この映画には「ストーリー」と呼べるストーリーがないことを意味します。通常の映画においては、明らかな、破綻です。

 

しかし、これは「うたプリ」でした。

 

うたプリはプリンスとプリンセスの物語である」「マジLOVEキングダムは、その1対1の物語の集合である」とぼくが結論づけたのは、前回・前々回のブログで述べた通りです(せっかくなんで読んでくれたら嬉しいです)。確かに普通の映画なら、120分前後でストーリーを最初から最後まで描かなければなりません。ですが、うたプリにおいては、見に来たプリンセス諸氏の数だけ、既にストーリーがあり、彼ら/彼女らが、本来必要であったストーリーの欠損を埋めるだけのエピソードを持っているわけで、ストーリーはある意味では必要ないと言ってもいいのかもしれません。なぜって、うたプリは「あなた」とプリンスたちの物語なのですから。

 

ぼくがうたプリにハマり始めた時に少し不思議に思っていることがありました。個人的経験を語らせてもらうと、コンテンツが大きくなればなるほど、その中で「古参」「新参」のマウンティング合戦が起きる可能性が高まる、と思っています。それ故の衝突もきっと起こるだろうと思っていましたし、メモ帳4枚お気持ち表明ツイートみたいなのもどんどん増えるんだろうな、と思っていたのですが、ぼくの観測範囲が狭いとはいえ、そういう衝突がほとんど見当たらなかったことです。いや少しは製作陣批判とかあるんだろうな、とか思いましたけど、全然見なかった。なんならぼくみたいなド新規野郎がドヤ顔でブログとか書いちゃったりしてるのに、すげえ好意的に受け止めてくれる方々ばっか(この場を借りて御礼申し上げます)。けどそれは「あなたとプリンスたちの物語」の話を考えるとすごく合点のいく話で、要はぼくにも「ぼくとプリンスたちの物語」があって、うたプリ界隈においては「あなたの物語」として数々の物語があることが当たり前になってるんだろうな、と感じました。「マニアがジャンルを滅ぼす論」なんかが跋扈する中で、これは画期的なことではなかろうか、と思います。「個の物語」の集合体が、これだけ人を感動させたという点だけで、そりゃこれだけ大きくもなるわな、とぼくはすっかり納得してやられてしまったわけです。

 

それで、すっかりやられてしまったぼくがこれからどうなるか、という話ですが、今のところアニメの一期を見終えた、くらいのところです。秋口にはゲームも出るらしいので買うでしょう(おちんぎんがたりませんたすけて)。きっとまたツイッターで大騒ぎしたりしているし、アニソンDJなのでうたプリの曲をかけたりして泣いたりもするでしょう。そうやってぼくは、ぼくなりのスピードで、プリンスたちの物語にある欠損を、一つ一つ埋めていくのだと思います。

 

名もなき人々の国-地下アイドルオタクによるマジLOVEキングダムについての雑感

さて、前回の記事に記載の通り、「劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVEキングダム」観劇してきました。

 

めっっっっっっっちゃ良かった!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

うたプリ関連については正直少しだけ楽曲とキャラの顔と名前がわかる、というレベルではあったのだけれど、本当に楽しかった。具体的な内容はネタバレとかあるかもだし、何十回も見てる諸先輩がたがいらっしゃるのでそちらに譲るとして、いち地下アイドルオタクが見て最も衝撃を受けたのは、彼らは徹底して「君/あなた/お前」に歌っていた、ということです。

 

地下アイドルが最も簡単に注目される方法はなんでしょうか。様々な意見があると思いますが、ぼくはその手段の一つが「恋愛スキャンダル」だと思っています。どこそこのグループの誰それがオタクと付き合った、彼氏がいた、女の子に何股をかけていた……是か非かで言えば非とされることですが、こと地下アイドルが注目を集める、という点において「爆発的にヒットする」以外であればこれを超える手段はないのではないでしょうか。それはつまり、アイドルは「誰のものにもならない」という不文律があることを指しています。アイドルは誰のものでもない、アイドル自身のものですらない。だから「○○はみんなのアイドルだから」などという古臭い文句が定番化しているとも言えるでしょう。誰のものでもないから、みんなの愛を一身に受けることができる存在であることが、アイドルに求められていることなのかもしれません。仮に言葉にしていなかったとしても、そうした姿勢を示すアイドルが「プロフェッショナルである」と評価されていることからも、アイドルに求められていることは自然とうかがい知ることができます。だからぼくも、昨日まで「ST☆RISH/QUARTET NIGHT/HE★VENSは、みんなのアイドルなのだ」「だから『うたの☆プリンスさまっ♪』は巨大なコンテンツとして認知を得たのだ」と考えていました。もっと安直に言えば(彼らは二次元のキャラクターですが)「顔がいい男がいい歌を歌って、バックボーンになるストーリーがあるんだから、そりゃ流行るよ」という認識です。それが勘違いであったことをぼくが知るのは、開演から30分経った頃でした。

 

最初に気付いたのは、最初のMCに入った時でした。ST☆RISH/QUARTET NIGHT/HE★VENSのメンバーが、それぞれファン・ライブ・仲間への思いを語っている中に、「みんな」「お前たち」「君たち」という言葉は少なく「君」「あなた」「お前」という言葉が多い。曲中でもそうでしたが、彼らがファンを指す時に使う言葉に、二人称複数が極端に少ない。徹頭徹尾、彼らは「君/あなた/お前」に向かって語りかけます。彼らの愛を届けること、「君/あなた/お前」からの愛を確かに受け取っていること、それがかつてあった(と示唆された)問題を乗り越える大きな力となったこと、それへの感謝…極端に二人称複数の代名詞が少ないMCを挟みながら、ライブは進んでいきます。それはこの物語が「彼らとファンの物語」ではなく「彼らとあなたの物語」であること、「あなたが『うたプリ』の物語の一員であること」そして他でもない「君/あなた/ぼく」に、彼らからの愛を載せた歌を届けていることの、何よりの証明でした。

 

ぼくは「うたの☆プリンスさまっ♪」は「巨大な1つのコンテンツ」なのだと、重大な勘違いをしていました。これは、いくつもの「ST☆RISH/QUARTET NIGHT/HE★VENSとあなたの物語」であり、その積み重ねが彼らをアイドルたらしめている物語だったのです。またしても特大の衝撃でした。これまでアイドルには最もできないはずだった「永遠」を「あなただけに約束してくれる」アイドル。そんなことができるなんて思いもしなかった。そりゃ人気にもなるさ。だってそんなことできる奴いなかったもの。

 

正直に言います。このMCを聞いてぼくは少し泣きました。こんなことしてくれるアイドルがいただなんて、思いもしなかったからです。隣の席からもすすり泣く声が聞こえていました。あとでチラッと見えましたが、彼女は多くのグッズを手にしていました。何も知らないぼくでさえこんなに感情的になったのですから、ずっと追いかけている方々は心に突き刺さる言葉だったことでしょう。そんなことができる存在がアイドルでないわけがありません。ぼくは今日、最高のアイドルを目にしたのだと、はっきり自覚しました。

 

さて、そんな風に完璧にやられてしまったぼくですが、まだぼくは「うたの☆プリンスさまっ♪」のことを全くと言っていいほど知らない存在です。これからアニメの第1期〜第4期を追いかけ、どこかでゲームを揃えなければいけません。なぜってそりゃ、彼らは、今ここにアイドルがいて、どれだけの愛に囲まれてここまできたかを、こんなに鮮やかに証明してくれたのですから。

偶像は人間の夢を見るか-聖川真斗に対する雑感

前から口にしている通りいくつかの地下アイドルのオタクをしているのだが、基本的に彼ら/彼女らは非常に刹那的な存在である、と思う。例えば恋愛禁止であったり、過酷なスケジュールであったり、アイドルはステージ上の輝きと多くのものを引き換えにしている。普通に生きていれば誰かと恋をしたり、友達と過ごしたり、多くの優しい世界が待っていて、だけどそれをかなぐり捨ててステージ上の輝きに賭けた人たちーーーーーそれに耐えきれなくなったアイドルが悲しい顔でステージを降りていくのを何度も目にしてきた。オタクはいつだって「大切なお知らせ」(大抵の場合いつものハイテンションぶりはなりを潜め、句読点のみで構成された無味乾燥な文章がインターネットに流れる)に怯え、あるいは見ないふりをして一時の歓喜に沸いている。古くから滅びゆくもの、消え去るものが人は好きだ。だからこそアイドルのように「いつかどこかで別れを告げるもの」は、人々の愛を一身に受けるのかもしれない。

つまり何が言いたいのかというと、アイドルは遅かれ早かれ必ず消えてしまう、ということだ。それが物理的な死なのか、アイドルとしての死なのかはわからない。だがその未来を見ているアイドルは、それと引き換えに恐ろしいくらいの輝きを得る。その輝きが人々を魅了する。ぼくはそう思ってきた。つい先週まで…「つい先週まで」というのは、こんなツイートを目にしたからである。

 

 

聖川真斗。アニメ・ゲームなどのコンテンツである「うたの☆プリンスさまっ♪」の登場人物であり、劇中で活躍するアイドルグループ「ST☆RISH」のメンバーである。彼のディテールやこのアカウントの説明はぼくよりも遥かに詳しい諸氏に譲るとして、このツイートである。ぼくにとってはあまりに衝撃的な内容で、あまりにも美しく、あまりにも強い言葉だった。

 

…だってそうでしょう?アイドルはいずれいなくなっちゃうじゃないか。誰のもんにもなれないじゃないか。例え二次元のアイドルだからってこんなこと言うの?嘘でしょ?うたプリ自体には前から興味を持っていたし、実際アニソンDJをしている身として、ある程度彼らの楽曲も持っている。ぼくが知り得る情報は、それが全てだ。彼らのディテールはよく知らない。だがこのツイート群1つで、ぼくははっきり言って完璧にまいってしまった。降参だ。こんなの反則だ。あまりにも衝撃的であった。ただでさえ永遠なんてものは世の中には存在せず、日常の中で誰かのためだけに存在している人などいないと言うのに、よりにもよってそれをアイドルに言わせるのか、という衝撃である。

 

ーーーーー地下アイドルオタクが「いつまでも いると思うな 推しと親」と自嘲気味に語ることがある。「大切なお知らせ」と共に、忽然と消えるアイドルたちは少なくない。先に述べた通り、彼ら/彼女らと「永遠」という言葉は、おそらく世界で一番両立しえない言葉の1つであろう。そしてそれは、エンターテイメントと呼ばれるものに共通の運命と言ってもいいかもしれない。形ある偶像は壊れる。ビートルズはジョンとポールのすれ違いから消えていったし、クイーンはフレディという偉大なフロントマンを失った。永遠に自分のことを歌ってくれるはずだった人々は、すべからくその歴史に幕を下ろしてきた。

 

しかし、聖川真斗は「永遠を約束した」。

 

誤解を恐れずに言えば、彼は虚像である。キャラクターである。彼の発言は、それを作る誰かの存在なしには生まれ得ない。その聖川真斗に永遠を約束させ、ファンはその言葉に救われるーーーーーこれがアイドルでなくて、なんなのだろう。断言してもいい、アイドルという偶像となった、虚像の存在である聖川真斗は、この時…と言うより、この発言があったもっと前からアイドルであったのだ。虚像の偶像は、人々の中に、あるいはスクリーンの中に、あるいは画面の中に確かな存在を得た。これまで無数にプリンセス諸氏が感じたであろうその瞬間が、ぼくの目の前に明らかな質量をもって現れた。はっきりと言おう。ぼくは、聖川真斗に心を鷲掴みにされたのだ。

 

この文章を書いているぼくは、これまで放映されてきた「うたの☆プリンスさまっ♪」のアニメシリーズを視聴すること、そして現在上映されている「劇場版 うたの☆プリンスさまっ♪ マジLOVEキングダム」を見ることを決めている。今更ながら、十分すぎるほどにアイドルであった聖川真斗、そしてST☆RISHの軌跡を追いかけようと思っている。彼と彼らが辿った歴史を、少しでも追体験したい。それは、うたプリの歴史を作ってきた聖川真斗とST☆RISH、そしてそれに救われてきた多くのプリンセス諸氏の体験の上澄みでしかないかもしれない。だが、今特大の衝撃を受けたぼくは、そこに至るまでの物語を知らずにはいられない。1人のアイドルオタクとして、それはおそらく、知っておくべき物語なのだから。

夢からさめてしまわぬように

先日、29歳になりました。28歳は自分の中で公私共に大きな変化が続いた年でして、大きなイベントにDJ出演させていただいたり、MCの活動も細々と進めてみたり、四月には転職も経験したりしたので、個人的には本当に激動の1年であったなあ、と思います。

20代も残すところあと1年というわけで、30代なんて遥か未来のことのように思っていましたが、あまり大きな実感があるでもなく、ぼくの本質はあまり変わらないような気がします。一方で家庭を持ったり仕事が順調だったりする友人を見て、ぼくも何かしなきゃいけないんじゃないか、という焦りのようなものを感じる時も増えました。今見返したら28歳になった時も同じようなブログを書いていて本当にぼくは変わってないんだなあ、などと思ったりもしますが、まあ変わるべきところで変わり、変わらずにいるべきところは大事にしていければいいのかなあ、なと思います。

今のぼくはDJと仕事が生活の中心なのでDJの話をすると、主催イベント「Emotion!ght」が無事に3年目を迎えられたことは、一番の出来事かなあと思います。それはお客さん、会場、ゲストの皆さん、そして贔屓目なしに素晴らしいクルーのみんなにただただ恵まれた結果です。ほぼほぼ名ばかりの主催ではありますが、改めてお礼を言いたいです。いつも本当にありがとう。

また、「音音酒飲-ねおんさいん-」「Anttena」への加入や、ロックパーティ「高円寺RDF」加入からもうすぐ1年という節目もあります。毛色が違うパーティではありますが、好きなことを好きなだけ、という現場があるのは本当にありがたいものです。どちらも新規パーティでこれからますます盛り上げていきたいとおもっていますので、平日飲みたいひとは音音酒飲、土曜にオタクをこじらせたい人はあんてな、キッズは高円寺RDFと、それぞれ遊びに来てくれたらうれしいです。

 

ぼく個人としては、28歳もあっちこっちにお呼ばれされてとにかく色々やらせてもらったなあ、というのが率直な感想です。昔ライブで見てたアイドルさんとご一緒させていただいたり、ageHaに初めて出演させていただいたり、日頃から売れてえ売れてえ言ってますが、正直DJ始めたころに思い描いてたより色んなことをさせていただいて、こちらも感謝しかないというところです。MCとか想定してなかったマジで。

 

DJは、お客さんや他の人の「見たい!」とか「聴きたい!」があって初めて成立するものだと思っています。そうして振り返ると28歳の間は「DJとして必要とされるために何をするか」ということを去年以上に考えたかもしれません。ぼくの聞いてほしい、見てほしいDJと、お客さんがぼくに期待するDJはなんなのか、ということを考えたり、その時々でプレイを変えてみたり、MCに挑戦してみたり、様々な角度からDJを見つめて、悩んで……結局明確な答えは出ないまままた1年経ってたわ!!!やべえ!!!という感じなのですが、1つだけ思ったのは、たぶんこれを考えることをやめてしまった瞬間が、DJとしてのぼくが死ぬときなのだろうということです。以前このブログで「来てくれた人の好きなものを肯定し続けたい」というようなことを書きました。それは言い換えると、好きという感情に誠実であることなのだと思っています。ではそのためになにをすべきなのか、という問に対しての答えが、ぼくが来てくれるお客さんや一緒にやってくれる仲間に喜んでもらう方法を考え続けることなのだろうな、というのがぼくの考えたことでした。器用なことのできる人間ではありませんが、それだけはこれからDJとして、あるいは人間として続けていきたいなあ、と思います。

 

とにかく、29歳ということでいよいよ来年は大台に乗っちまう!!!たすけてくれ!!!という気持ちもありますが、これまでの29年間を無駄にしないように頑張ります。29歳のチリもよろしくおねがいします。