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矛は盾を破るか、あるいは矛は盾に向いているか-「宇崎ちゃんは遊びたい」を踏まえた環境型セクハラについての小論

ここ一週間、以下のツイートがTLを賑わせました。

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(当該ツイートは削除済。ツイッターより引用)

弁護士の太田啓子氏(@katepanda2)が、日本赤十字社献血キャンペーンの一環でコラボした「宇崎ちゃんは遊びたい」のポスターについて「女性キャラクターを性的に消費するものである」として批判する内容のツイートです。大本のツイートについては以下の記事が明るいようです。

bunshun.jp

 

かねてから「オタクvsフェミニスト」の文脈で意見が対立することは多々ありましたが、今回もその例に漏れず「フェミニストが声をあげ、オタクがその倍声を上げる」という構図は変わらないようです(ここでいう「フェミニスト」はあくまで総称としてのもので、揶揄する意図はありません)。多くの場合、オタクの描くイラストやそれに対して批判的な意見は「このイラストは性的に誇張された表現であり、女性を性的に消費するものである」「これらのイラストが許容される社会は女性を軽視・蔑視したものであり、批判されるべきものである」というものです。

誤解を恐れずに言うと、こうした意見の根本は間違っていないように思います。日本社会で生きていくのは、少なからず男性社会で生きていくことであり、女性であることで不利益を生じることが多々あります。女性が生きていく上で困難な出来事は多々あるし、はっきり言って生き辛い社会ではあるだろうな、と思います。今回のツイートについても、「女性を性的に消費している」という意見は「宇崎ちゃんは遊びたい」という作品の中で時折見られる「巨乳」という表現方法に表出しているということもできるかもしれません。これまで批判された「オタク」のコンテンツが、少なからず「女性を性的に消費している」という側面があることは否定できません。

 

ですがーーーぼくが「男性」であり「オタク」であるということを差し引いてもーーーどうしてもこの意見には賛同できないな、と思うのです。

 

こうしたオタクコンテンツに対する批判が生まれるとき、大半の場合は「オタクの意見は間違っている」「こうした表現はなくさなければならない」という文脈で語られるものです。その主張を否定するつもりはありませんが、一方でぼくは「意見や表現をなくすべき」という主張は、大きく間違っている、と思うのです。

フランスの哲学者、ヴォルテールにまつわる言葉に「私は君の意見には反対だ、だが君がそれを主張する権利は命をかけて守る」というものがあります。仮に意見が対立したとしても、主張するという行為自体を否定することを認めてはならない、という文脈でよく使われる言葉ですが、ことこの「オタクvsフェミニスト」の議論に関して、この姿勢はあまりにも軽視されているように思います。すなわち「お前の意見は間違っている、だから糾されるまで糾し続けてやる」という話です。お前を叩きのめしてやる、という姿勢になった瞬間、それは議論ではなく、対決です。対決の場合、相手が死ぬまでそれは終わりません。何かを改善したいと思ったときに対決が発生した場合、それは対決ではなく、殲滅になってしまう、と思うのです。

「女性は大小あれど抑圧されていると思う」「オタクコンテンツでもそういうのはあると思う」ぼくもそう思います。今より改善の余地はあると思います。しかし、それは「女性は抑圧などされていない」「オタクコンテンツはこのままで構わない」という意見を圧殺してのみ存在しうる意見ではありません(極端な話ですが)。批判されがちな極端に身体を誇張した表現や、ややもすれば他者を傷つけるコンテンツは存在します。そしてそれを楽しむ人も、大小問わずに存在します。決して褒められたことではないかもしれませんが、そこには確かに人が存在します。「傷つけられる人」がいるように「傷つける人」がいます。であるならば、そこには「傷つけられた人の権利」と「傷つけた人の権利」があるはずです。同じように守られるべき、とは言いませんが、人は生きていくうえで、最低限の権利が存在するはずで、その最低限のラインに対し、罰こそあれど最低限の権利すら剥奪する権利は、誰も持ち合わせていないのではないでしょうか。

もうひとつ言葉を紹介します。「ありがたいことに私の狂気は君たちの神が保証してくれるというわけだ よろしい ならば私も問おう 君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」これは漫画「HELLSING」に登場する「少佐」の言葉です。吸血鬼と化したナチス残党を率いる詳細は、英国全土を巻き込んだ戦争を画策しています。それを糾弾する英国国教会を始めとする重鎮たちに、少佐はこの言葉を投げかけます。あくまで「正義」を成そうとする英国紳士たちに「悪」であるナチスドイツの少佐がこの言葉を投げかけます。すなわち「お前らが正しいとする根拠は、果たしてお前ら以外の誰が正しいと言ったんだ?」ということです。正義の反対は悪ではなく、またもうひとつの正義です。であれば、世の中に存在すべきでない意見などないのではないか、とも思うのです。

 

これはあくまでぼくの考えですが、今回の件に関して言えば「女性を性的に消費するコンテンツを楽しむことは許されない」という意見と「こんなのは女性を性的に消費するコンテンツにはあたらない」とする意見の対立です。それは双方にとっての「悪」を駆逐する「正義」の戦いであり、原則としてどちらかを駆逐するまでは終わりません。だとすれば、それは双方に対しての殲滅でしかないのです。「正しさ」を主張することは「相手を殺すまで殴りあう」ことではないはずです。

もっと話は単純で「私はこれが不快です」の応酬でしかないのではないでしょうか。それであれば着地点はともかく、着地"すべき"点が「どうすればどっちも不快な思いをしないでいられるのか」に尽きるはずです。無論、それはどちらかにとっての100点の着地点ではないでしょう。「これまで女性は散々譲歩してきた」という意見も最もです(あるかどうかはわかりませんが)。ですが「不快な思いをしない」ということは「相手に対しても利点のある着地点を見つける」ことでもあるのではないかと思います。こうした議論において、着地点を見つけることは相手を叩きのめすことではなく、相手を活かすことである、とぼくは思うのです。だからこそ、フェミニストにとっても、オタクにとっても「まあこれくらいなら」という妥協点を探る作業は、必要なのではないでしょうか。

 

こうして書いてみると理不尽なことを言っている、と思います。ましてやフェミニスト諸兄にとってみれば「加害者」側であるぼくが言うべきではないのかもしれません。ですがぼくは「お前が間違っている!」と叫ぶことより「まあ我慢ならないところではないからいてやってもいいよ」と言うことの方が、よほど建設的な話のように感じられてならないのです。