TIME,FLIES,EVERYTHING GOES

日々のこと、DJのこと、音楽のこと。

ずっと諦めてきた人生だったなあ、と今になって思うのだ。

求職中の今、こうして人生を振り返ってみると、後悔ばかりが先に立つ。「あの時こうしていれば あの頃に戻れれば あの頃の僕にはもう戻れないよ」なんて歌っていたバンドに、ぼくもなれると思っていた。だけどそれは大きな勘違いで、あの頃毎日弾き続けていたギターは、とっくに埃を被った部屋のオブジェになっている。好きな女の子は大体ぼくの友達と付き合っていったし、続けてきたサッカーは視力が悪くて中学生の時に辞めた。行きたい大学は数学が苦手で、ぼくなりの努力はしたけれどどうしても成績が上がらずに違う私大に行った。そんな生活をしているものだから性格もいい方ではなく、人を羨んで育ってきた。社会人になって出世しようかなんて思っていたが、どうにもこうにも上手くいかずに、やりたいことを諦めて、気がついたらぼくは30歳になろうとしている。ぼくはギターヒーローでもなければ、スター選手でもない、単なる凡人あるいはそれ以下の無能であったことを、毎日証明しているような気分になる。

必要な挫折であった、と笑えるのは、挫折を乗り越えた人だけだ。挫折の只中にいる人にとって、挫折は挫折でしかなくて、何かを得たいと思いながら何も得られない自分に絶望するのが現実である。まさに今のぼくは挫折の中にいて、ただただ折れてしまった心を無理やりテープで補強して生きる、そんな日々を繰り返しているここ何ヶ月かだ。

だけどそれでも、ぼくは諦めたくないなあと思う。大したこともできていない今だから、色々な人がぼくに優しくしてくれる。資本主義が基本の社会において、無産層であるぼくは間違いなく価値がない。それでいてなお、ぼくの良い所とやらを見つけて、そこにスポットライトを当ててくれる人がいる。こうありたい、というビジョンにぼくがとても届いていないことに誰もが気付いているのに、そうなれる、と励ましてくれる人がいて、そうなるためのヒントを与えてくれる人がいる。そんな人と会う度にぼくは、まず真人間になる、という、極めて小さな現実を諦めてはいけないのだなあ、と思うのだ。ぼくは自分を極めて矮小な、ゴミクズのような男だと定義している。それ故に、虚勢を張って生きている自負がある。ぼくは、人間の底辺だ。それでもぼくと一緒にいてくれる人がいるから、じゃあ諦めたら申し訳ない、とぼくは考えるのである。

結果が出ていないから、この文章も所詮クズの戯言である。だからこれを、少しだけ結果を出したクズの戯言にするために、頑張らなくてはいけないと、ぼくは30になる今頃になって、ようやく思うのだ。

My Dear Friend-FGO2部5章を終えて、マンドリカルドと友情についての雑感

<!!!Atention!!!>

この記事は、ゲーム「Fate/Grand Order(以下、FGO)」第2部5章「"神を撃ち落とす日"神代巨神海洋アトランティス」の重大なネタバレを含んでいます。また、読者が同ゲームの1部、1.5部、2部の全章をプレイし、Fateシリーズにおける前提知識を持っていることを前提とした文章です。最低でもFGO第2部5章のプレイ後に閲覧することを強く推奨します。

 

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その日あなたは画面の中で-VRアイドル「えのぐ」の無料握手会に参加した話

都内に出て面接を受けることが多いのだけれど、今日の面接は秋葉原に程近いところであった。面接とは言え私服での面接になるため、普段遊びに行く格好とほとんど変わらず、靴だけ履き替えるような格好である。移動中はTwitterを眺めることがほとんどで、いつも通りスマホを見ながら電車に乗っていたとき、ある記事がTLに流れてきた。

記事を読んでいくと、「えのぐ」はなんでもVRアイドルということで、ここ1,2年くらい活動をしている人々であるという。そしてその人たちは今秋葉原で握手会をしているらしい。そういえば、友達から「えのぐ」っていうVtuberがいるとかヤバいとかいう話をされていたのを思い出した。なるほどこの人たちか。

VRで・・・・握手会・・・・?」

そこそこ長い間アイドルオタクをしていて、握手会にも何回か参加したことがある。アイドルとの交流というものは楽しいものだ。しかしVR活動をしている人たちは画面の中の存在、というイメージが拭えない。いわば2.5次元の存在である人々と、3次元の我々が交流するのは、どういうことなのか・・・?気になって、秋葉原ラジオ会館前に足を運んだわけである。

イベント1時間前くらいだというのに、既にラジオ会館前には多くの人が集まっていた。たぶんえのぐみ――彼女たちのファンの通称だ――の人たちなのだろう。そしてその光景はぼくが今まで見たアイドルのイベントと変わらない。なんだかそこに立っているだけなのにテンションが上がってくるような気がしていると、設置されているモニターにかけられた幕が取り外された。

えっ待って動いてるめちゃかわいくないあっめっちゃ話しかけてるうわかわいいえっなんでうわかわいいえっ

古今東西、普通にかわいい女の子を見るとオタクは気持ち悪さを増す。これは決定事項だ。そしてぼくも例外なく気持ち悪いオタクとなった。握手会場前に設置されたモニターの横にはカメラとマイクが設置されていて、画面内で動くえのぐのメンバーと会話ができる仕組みになっているらしい。最初に現れたのが日向奈央さんという方だそうです。その姿を見た瞬間に、どんなことを話そうかなーなどと考えていたぼくのプランは、ものの見事に吹き飛んでしまった。かわいいは最強の武器である。

かつてどこかのオタクが「オタク、冠婚葬祭をしがち」なんてことを言っていたが、そこに「オタク、軽率に初恋を繰り返しがち」という文言も追記したい。めっちゃかわいい子が名前読んでくれるの、テンションあがりません?ぼくはそれをAKB48オールナイトニッポンで経験しています。日向奈央さん、めちゃくちゃこっち見てる。いやカメラ越しだからどうなってるか全然わかんねえんだけど。

 

さて、握手会である。ぼくは特に何も考えずに一番直近の時間帯で握手券を入手していたわけだが、その時間帯は白藤環さんというメンバーだということをその後で知った。えのぐみ諸氏のレポートを見る限り、めちゃくちゃ喋る人らしい。Twitterを見てみると、どうやらオリジナル曲を持っているらしく聴いてみる。ハイスピードのいわゆる電波ソングというやつか、めちゃくちゃ中毒性が高い。

www.nicovideo.jp

そうこうしているうちに時間があっという間に来た。タペストリーで仕切られた、会場と呼ぶにはずいぶん殺風景な空間に案内され、パイプイスに座ったところ説明があった。どうやらヘッドセットをつけ、握手というのはコントローラーを持って行うらしい。なるほどこういうことなのかと思い、ヘッドホンを装着したrうわ待ってもういるじゃんめっちゃ動いてるじゃんえっ何これかわいい

かわいさは鈍器である。故に白藤環さんは思いっきり殺傷能力の高い鈍器である。そしてぼくは殴られて死んだ。実際話していた内容はかろうじて覚えていて、どこで知ったの?という話でアニソンDJをしていることなどを話した。めっちゃすごいじゃんって言ってもらった。恋。あとVR握手会、何がすごいと思ったかって、ヘッドセットが割とでかいから自重で下がり気味になるので必然的に自分の視線も下がり気味なんだけど、そうすると環ちゃんが下から見上げてる風になるんですよね。かわいいかよ。またここで死ぬ。二回は死んだ。あと「DJでえのぐの曲かけてくださいy」「絶対かけます」みたいなやりとりをした。手持ちが全然なくてすぐ音源手に入れられなかったけどぜってー買う。

普段音速の握手会剥がしやなんやに慣れている身なので、めちゃくちゃ時間が長く感じた。おかげで最初ぶっ飛んだ頭の中身を慣れさせることができて、ものすごい満足感がある。時間が来ると剥がし、みたいなのではなく、自然と視野がフェードアウトする感じで「あの剥がしスタッフ、マジうぜえな」みたいな、現実でよく見る不満因子が全然ないストレスフリーな感じ。もう一回言いますけどこれ無料ですからね。大丈夫か運営。ちゃんと元は取れているか。物販とかで全然還元できなかったので申し訳ない限りなんだけど、落ち着いたら速攻で買います。

 

というわけでぼく初めてのVR握手会は驚異的な満足度をもって終了したわけで、あんまり満足度が高すぎたもんだから秋葉原献血ルームでこれを書いています。今回白藤環ちゃん、日向奈央ちゃん(ひなおちゃんってあだ名らしいですね覚えました)と話してめちゃくちゃ楽しかったし、そのあと聞いた音源がまさにアイドルソングって感じでよさがあったので、まあ、その、完全に落ちました。ありがとうございました。

 

 

 

orbital period-DJ活動6周年を迎えるにあたっての雑感

通信簿には「集中力が続きません」「飽きやすい」という評価が並び、物心ついたときから何かを始めたがってはすぐに飽きてしまう性格をしていた。それは30歳を目前にした今でもあまり変わらなくて、物事があまり続かないのは目下の悩みである。普通に生きていると何かを続ける力は自然と身についているようで、ライフワークとまではいかずとも、何かをずっと続けている、という人は少なくないようだ。そうした人たちを見るたびに「ああ、すげえなあ」「オレはああなれねえなあ」という、劣等感のようなものが自分を支配して、なんだか悲しい気持ちになったりしてきた。

 

そんなぼくが、12月でDJを続けて丸6年を迎える。

 

諸先輩に比べればまだまだひよっこと呼んでも差し支えなかろうが、後輩と呼べる人もそこそこ出てきて、いわゆる中堅どころになりつつあるのかなあ、なんていうことを考える機会も増えた。

しかし実際のところ、DJに歴なんてものは微塵も関係ないと思っている。ぼくの場合も歴が長くなってきた、というだけであって、ぼくより上手いーー上手いという表現だけでは収まらないがーーDJなんてのはごまんといるわけである。そんな中でぼくが何をしてきたのかなあ、なんてことを考えると、ぼく自身の力でできたことは本当に皆無で、常に誰か、何かの力を借りて、一番最後にゴールを決めるだけですさあどうぞ!というパスをもらい続けた6年間だったなあ、と今は思うばかりだ。主催のイベントは3年もやらせてもらえたし、学生の頃見に行ったライブハウスに立たせてもらうこともできた。ずっと言ってきたが、比較的人から褒めてもらう機会も増えたし、自分で言うのもなんだが、満足いく6年間、本当にありがたい6年間であったなあ、と思う。だが、まだまだやりたいことはある。出たいイベントや共演したいDJさんにアイドルさん、そうしたものがいっぱいだ。思っていたよりぼくは強欲なのである。

 

つまり何が言いたいかと言うと――まだまだ許される限りDJを続けたいなあ、ということである。おそらくDJとして今までのように毎週末何かしらのイベントをやっていて、という時間は刻一刻と短くなっている。DJで食っていく、ということであれば話は別であろうが、別にそのつもりもない。だけど、ぼくはまだやりたいことがあるし、DJは楽しい。ならば辞める理由はまだないはずだ。そして本当にありがたいことに、まだDJを聞きたいと言ってくれる人がいるのなら、これはまだ続けるしかないということに他なるまい。

 

12月には主催イベント「Emotion!ght(#エモのやつ)」が3周年を迎える。周年回として素晴らしいゲストの皆さんと、頼れるクルーに囲まれて、幸せな周年にできれば、と思っている。

twvt.me

 

個人的にも12月には「Re:animation」10周年キックオフパーティなど、様々呼んでいただいている。7年目になってもなお、まだまだ成長できるよう頑張っていくし、生活も立て直せるように過ごしていくつもりである。今後とも、応援や叱咤激励をいただければうれしい限りだ。

春が過ぎてなお-あるいは、どのようにぼくは1人アイドルに惹かれる5年間を過ごしたか

彼女は秋葉原のコンセプトカフェのような店舗で店員をしていて、ぼくはDJすらやっておらず、単なるコンカフェ通いのオタクであった。彼女が2回目くらいの出勤の時にたまたまぼくが店を訪れ、確か好きな音楽か何かの話をした時に「フジファブリックを聞いていた」という話になったのがきっかけで、ぼくは彼女を追いかけるようになった。

 

これはぼくにとって、生まれて初めてちゃんと「推した」アイドルの話である。

 

休みは大体秋葉原に通った。チェキも買った。プロマイドも買った。いつしか彼女からも認知されて有頂天になった。Twitterには彼女が推しであることを明記したら「初めて推しができた」と(リップサービスもそこにはあったかもしれないが)喜んでくれた時、ぼくはおそらくそれ以上に「そんなに喜んでくれるのか」と喜んだ。彼女を通じて知り合った他のオタクと飲みに行った。当時ぼくは14時-22時が定時の仕事に就いていたので、たまの深夜営業なんかで彼女が出勤すると知ると終電で秋葉原に向かい、朝までダラダラ過ごした。DJを始めたのもこの頃で、機材を買ったその足で彼女に会いに行き「おれ、これからDJやるから!」と今考えれば噴飯物の宣言をしたりもした。

それまでもアイドルは好きだったし、CDを買ったりもした。しかし「推している」と口にすることこそあれど、彼女に対するそれのレベルで実践することはなかったように思う。それはおそらく、自分が「推す」ことでそれが対象に何かプラスになっているという(極めて主観的な)実感がなかったかもしれない。ぼくが、ぼくのような者が、応援するというだけでここまで喜んでもらえるのか、という気持ちが、ぼくを1人の地下アイドルオタクとして完成させた。必ずしもぼくは「強い」オタクではなかったけれど、ぼくにとってアイドルを「推す」という行為は、楽しかった。社会に出て圧倒的な孤独感に苛まれたぼくにとって、それは救いであり、大袈裟に言えば生きがいだった。

 

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しかし、そこから彼女のアイドル人生は二転三転することになる。まず初めに、彼女は店舗を辞めた。そこから入ったグループが解散したり、あっという間にソロから別グループになったり、結局彼女は1人になって、ソロアイドルになっていた。一方のぼくは、始めたDJで少しだけ他のイベントに呼んでもらえるようになり、アイドル現場からは少しずつ遠ざかるようになる。彼女のライブにもなかなか足を運ばなくなり、DJにのめり込んでいった。

しかしそれでもーーあまりにも身勝手な話であるがーー彼女がぼくの「推し」であることに変わりはなかった。ぼくが仕事のストレスから休職することになった時も「一緒に頑張ろう」と言ってくれたこと、彼女が様々なステージで踊り、歌っていること、それは確実にぼくが辛い気持ちになったとしても「あの子もどっかで頑張ってるんだから」という気持ちを呼び起こす鍵となっていたからだ。距離と、頻度と、ほとんど全てが変わっているのに、その気持ちだけは今でも変わらずにある。

 

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彼女がアイドルを引退したのは、去年の3月のことである。ぼくはほとんどライブにも足を運んでいなかった。もはや推していると胸を張って言えるかもわからない、そんなオタクだったが、とにかく行かなければならない。もし彼女が言う通りぼくが最初を知っているのなら、最後もちゃんと見届けなければならない。そう思った。朝一で名古屋から駆けつけた友達と朝飯を食べ、ライブハウスに行って、いつもいる人たちとヘラヘラ笑う。当たり前のようなその光景がいやに懐かしかった。あとは彼女が出てくるのを待つだけの、いつも通りで、いつも通りでない光景を、ぼくは眺めながら話し続けていた。

 

ライブはつつがなく進行するセレブレーションだった。彼女のこれまでアイドルとして辿ってきた色々な道のりを追体験するセットリストーーー大半は彼女の曲ではなかった。彼女は地下アイドルだ。オリジナル曲など、片手で足りる。しかしそれでも、その日に限っては、彼女の曲なのだ、と思った。かつての同じグループにいたアイドルも駆けつけていた。隣にいた、昔からよく来ていたオタクが嗚咽を漏らした。彼には彼の追いかけてきた道のりがあって、それを最後に彼女が全て見せてくれたのだろう。端から見れば奇妙な光景だったかもしれないが、今でもぼくの頭にその光景が焼き付いて離れない。

 

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大抵の地下アイドルと同様に、彼女のライブが終わった後にも物販がある。それは最後のライブだからと言って変わることはなく、それぞれのオタクが思い思いのアイドルのブースに並び、チェキやグッズを買い漁っていった。ぼくも同様に他のアイドルの列に並んでいく。共演していたアイドルも知った顔だ、ぼくが並ぶと「お疲れ様」「いいライブだったね」などと話しかけてきた。それはまるで葬儀のようだった。アイドルの死をーーー彼女は卒業後にタレントに転身することを発表していたがーーー何人も"看取って"きたオタクたちにとって、ある意味日常的な風景ということもできる。悲しみとも寂しさとも言えない感情で、ライブ後の雰囲気を感じながら、もうステージに上ることのないアイドルのことを思うのかもしれないーーーなんてことを考えていたら、あっという間に次はぼくの番になって、「お疲れ様」なんてことを話しながら、最後に動画を撮った。ステージで泣いた彼女は、またぼくの前で泣いた。それを見てぼくも、泣いた。全然ライブにも行かなかったくせに。Twitterだって全然リプライもしなかったくせに。周りのオタクの方が、よっぽどライブに行っていて、彼女に安心を与えていて、ぼくはその足元にも及ばないくせに。ぼくは一丁前に、顔だけはへらへらと笑っていながら、泣いた。きっとよそから見れば、ぼくの涙はあまりに滑稽であったことだろう。それでも、泣かずにはいられなかったのだ。

 

誤解を恐れずに言えば、彼女は売れていたアイドルではない。徹頭徹尾、彼女の活動は地下アイドルであったと思う。かたやぼくも、彼女を推している間にDJ活動が進んだとはいえ、所詮は一介のサラリーマンである。そう考えると、これは「地下アイドルに冴えないサラリーマンが入れ込んで、最後に泣いた話」でしかないのかもしれない。だけどぼくは思うのだーーーこの世の中に、他者の心を思い切り鷲掴んで、何かの影響を与えて、笑顔にできる存在が、果たしてどれだけいるのだろうか、と。だから、大げさに言えば、彼女のようになりたかった。誰かの前に立って、笑顔や、涙や、そういう感情を、誰かに持たせることのできる存在になりたかった。ある意味ぼくがDJを始めたのも、そうした感情だったのかもしれない。どんなに小さな存在であったとしても、それを最初から最後まで全うしてステージを降りた彼女は、間違いなくアイドルであった。

 

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彼女は今、タレントをしている。時々何かのイベントをしているが、ぼくはあの最後のライブから、一度も彼女とまみえたことはない。今後会う機会というのも、おそらく片手で足りる程度だろう。なんとまあ、薄い出会いであったことか。

 

だけど。

 

だけど、ぼくは今でも、アイドルであった彼女に憧れている。アイドルはあくまで偶像でしかないけれど、そうした偶像を最初から最後までやりきった、あのかっこいい姿に、ぼくは今でも追いつきたいと思っている。別に、「アイドル」になりたいわけじゃない。だけど、彼女が残してきた人々が、何かの形で生きているのを知っている。そうやって誰かの心に何かを残せる存在になりたいと、ぼくは今でも思っている。そうやって日常を送ったり、DJをしたり、とにかく毎日を生きている。

 

だから、彼女がいてくれたことに、ぼくは今でも感謝するし、いつか彼女のような存在になれる日までーーー彼女のいないステージを見ながらーーーぼくは生きていくのだ。

異物を煮込んだ異物のあり方-女性向け作品も好きであることについての雑感

散々話してきたので何を今さら、という話ですが、ぼくはオタクをしていて、作品それぞれが持っている中での「男性向け」「女性向け」のカテゴライズにあまり関心がありません。必然、それぞれのコンテンツに集まる他のオタクに対しても「男性」「女性」というより「オタク」という大きなくくりで見ることになるわけですが、いかんせんカテゴライズされたそれぞれに対して、男女のくくりを見出す人は多いように感じます。すなわち「こいつは女オタオタではないのか?」「この子、単なるオタサーの姫なんじゃないの?」という見方です。

「女オタオタ」「オタサーの姫」を批判する方々の周りにそれに類する存在が具体的に存在しているかどうかは別として、彼ら/彼女らが批判を受けがちである理由は「コンテンツへの愛情以外に価値観を置いている」ことであるということができるように思います。端的に言えば「純粋ではない」「コンテンツを違う目的で利用している」ということでしょう。仮に純粋な気持ちから人と会話していたとしても、目的がすり変わってしまった人として彼ら/彼女らは排斥されます。

 

彼ら/彼女らが、自分の所属する周囲以外から排斥されていくのに並行して、それを眺めている周囲であったぼくには「ぼくもこう見られるのではないか」という恐怖が芽生えました。極論を言えば、コンテンツに対する好意のあり方を規定するものなどどこにもありません。別に1人で見ればいいわけですし、自分の好意くらい自分で持っていればいい。こんなことで怖いと思う方がおかしいのです。それこそ、好きを何者かに規定される行為と言えるかもしれません。では、ぼくは何に恐怖を感じたのか。それは「好きなものを大きな声で好きと言えなくなること」ではないかと思うのです。

ぼくは「好きな気持ちを誰かと話す」ということがとても楽しいことであることを知っています。自分の好きなキャラクターの話をすること、他人の好きなキャラクターの話をすること、自分が持っていない「好き」の視点を知ること、それはとてもとても楽しいことです。そしてそれは1人でできないことです。アニソンDJをさせてもらう中で、ぼくは本当に色々な方と出会うようになりました。悲しいかな「オタサーの姫である」「女オタオタである」と言われて後ろ指を差される人ーーー彼ら/彼女らが事実そうであるかは置いておいてーーーとも出会いました。ぼくはその中で「そう言われてしまった瞬間に様々に一人歩きしていく『ぼく』が生まれる」「そう思われることで、本当であるはずの気持ちを話せる人・楽しいと思えるチャンスに出会う可能性は確実に減る」と感じて、怖い、と思ったのです。…誓って言いますが、別に1人でいたとしても今好きなものに出会ったならば、ぼくは好きになっていたことでしょう。ですが一方で、人と話せなくなる、ということはぼくにとって大きな恐怖です。だからこそそう思われないように振る舞おうとーーーできていたかどうかはわかりませんがーーーしたりしました。本当に好きであったとしても好きかどうか明言を避け、ふわっとしたところでモヤモヤと気持ちを抱えることにしたのです。

 

じゃあそれがなんで最近はペラペラとよくもまあ、という話なのですが、端的に言うと「疲れちゃった」の一言に尽きます。好きなものを好きと言わないことは、何かを嫌いになるのと同じかそれ以上にエネルギーを使います。そのエネルギー消費がもったいないな、と感じたので、好きなものはなんでも関係なく好きと言おう、ということを、特にうたプリ関連のことでよく思うようになりまして、最近は好きということにあまりためらいがありません(気をつけなきゃな、と思うことは多々ありますが)。

 

まあ、好きなものを好きであるということに躊躇う必要はないのだな、と思うのです。ありたい過ごし方を維持する努力は必要ですが、ありたい過ごし方を我慢する必要もないのかなと。それが他者を巻き込むことなのであれば、努力の必要性も高まるかとは思いますが、別にぼくがうたプリとか華Dollとか伊東健人とか宮野真守好きであって誰かに迷惑かけることなんて中々ないと思いますし。あと個人的な意見を申し上げるなら、コンテンツとして見る分にはまあ笑えますけど女オタオタはクソだしオタサーの姫もクソだし早いこと消えろとは思ってます。なんでおれがこんなビビらなきゃいけねえんだ!!!!(八つ当たり)

 

好きなものは好きに楽しめばいい、という当たり前のことを再認識するのに、馬鹿なぼくは随分と時間をかけてしまったなあ、というお話でした。それでは。

矛は盾を破るか、あるいは矛は盾に向いているか-「宇崎ちゃんは遊びたい」を踏まえた環境型セクハラについての小論

ここ一週間、以下のツイートがTLを賑わせました。

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(当該ツイートは削除済。ツイッターより引用)

弁護士の太田啓子氏(@katepanda2)が、日本赤十字社献血キャンペーンの一環でコラボした「宇崎ちゃんは遊びたい」のポスターについて「女性キャラクターを性的に消費するものである」として批判する内容のツイートです。大本のツイートについては以下の記事が明るいようです。

bunshun.jp

 

かねてから「オタクvsフェミニスト」の文脈で意見が対立することは多々ありましたが、今回もその例に漏れず「フェミニストが声をあげ、オタクがその倍声を上げる」という構図は変わらないようです(ここでいう「フェミニスト」はあくまで総称としてのもので、揶揄する意図はありません)。多くの場合、オタクの描くイラストやそれに対して批判的な意見は「このイラストは性的に誇張された表現であり、女性を性的に消費するものである」「これらのイラストが許容される社会は女性を軽視・蔑視したものであり、批判されるべきものである」というものです。

誤解を恐れずに言うと、こうした意見の根本は間違っていないように思います。日本社会で生きていくのは、少なからず男性社会で生きていくことであり、女性であることで不利益を生じることが多々あります。女性が生きていく上で困難な出来事は多々あるし、はっきり言って生き辛い社会ではあるだろうな、と思います。今回のツイートについても、「女性を性的に消費している」という意見は「宇崎ちゃんは遊びたい」という作品の中で時折見られる「巨乳」という表現方法に表出しているということもできるかもしれません。これまで批判された「オタク」のコンテンツが、少なからず「女性を性的に消費している」という側面があることは否定できません。

 

ですがーーーぼくが「男性」であり「オタク」であるということを差し引いてもーーーどうしてもこの意見には賛同できないな、と思うのです。

 

こうしたオタクコンテンツに対する批判が生まれるとき、大半の場合は「オタクの意見は間違っている」「こうした表現はなくさなければならない」という文脈で語られるものです。その主張を否定するつもりはありませんが、一方でぼくは「意見や表現をなくすべき」という主張は、大きく間違っている、と思うのです。

フランスの哲学者、ヴォルテールにまつわる言葉に「私は君の意見には反対だ、だが君がそれを主張する権利は命をかけて守る」というものがあります。仮に意見が対立したとしても、主張するという行為自体を否定することを認めてはならない、という文脈でよく使われる言葉ですが、ことこの「オタクvsフェミニスト」の議論に関して、この姿勢はあまりにも軽視されているように思います。すなわち「お前の意見は間違っている、だから糾されるまで糾し続けてやる」という話です。お前を叩きのめしてやる、という姿勢になった瞬間、それは議論ではなく、対決です。対決の場合、相手が死ぬまでそれは終わりません。何かを改善したいと思ったときに対決が発生した場合、それは対決ではなく、殲滅になってしまう、と思うのです。

「女性は大小あれど抑圧されていると思う」「オタクコンテンツでもそういうのはあると思う」ぼくもそう思います。今より改善の余地はあると思います。しかし、それは「女性は抑圧などされていない」「オタクコンテンツはこのままで構わない」という意見を圧殺してのみ存在しうる意見ではありません(極端な話ですが)。批判されがちな極端に身体を誇張した表現や、ややもすれば他者を傷つけるコンテンツは存在します。そしてそれを楽しむ人も、大小問わずに存在します。決して褒められたことではないかもしれませんが、そこには確かに人が存在します。「傷つけられる人」がいるように「傷つける人」がいます。であるならば、そこには「傷つけられた人の権利」と「傷つけた人の権利」があるはずです。同じように守られるべき、とは言いませんが、人は生きていくうえで、最低限の権利が存在するはずで、その最低限のラインに対し、罰こそあれど最低限の権利すら剥奪する権利は、誰も持ち合わせていないのではないでしょうか。

もうひとつ言葉を紹介します。「ありがたいことに私の狂気は君たちの神が保証してくれるというわけだ よろしい ならば私も問おう 君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」これは漫画「HELLSING」に登場する「少佐」の言葉です。吸血鬼と化したナチス残党を率いる詳細は、英国全土を巻き込んだ戦争を画策しています。それを糾弾する英国国教会を始めとする重鎮たちに、少佐はこの言葉を投げかけます。あくまで「正義」を成そうとする英国紳士たちに「悪」であるナチスドイツの少佐がこの言葉を投げかけます。すなわち「お前らが正しいとする根拠は、果たしてお前ら以外の誰が正しいと言ったんだ?」ということです。正義の反対は悪ではなく、またもうひとつの正義です。であれば、世の中に存在すべきでない意見などないのではないか、とも思うのです。

 

これはあくまでぼくの考えですが、今回の件に関して言えば「女性を性的に消費するコンテンツを楽しむことは許されない」という意見と「こんなのは女性を性的に消費するコンテンツにはあたらない」とする意見の対立です。それは双方にとっての「悪」を駆逐する「正義」の戦いであり、原則としてどちらかを駆逐するまでは終わりません。だとすれば、それは双方に対しての殲滅でしかないのです。「正しさ」を主張することは「相手を殺すまで殴りあう」ことではないはずです。

もっと話は単純で「私はこれが不快です」の応酬でしかないのではないでしょうか。それであれば着地点はともかく、着地"すべき"点が「どうすればどっちも不快な思いをしないでいられるのか」に尽きるはずです。無論、それはどちらかにとっての100点の着地点ではないでしょう。「これまで女性は散々譲歩してきた」という意見も最もです(あるかどうかはわかりませんが)。ですが「不快な思いをしない」ということは「相手に対しても利点のある着地点を見つける」ことでもあるのではないかと思います。こうした議論において、着地点を見つけることは相手を叩きのめすことではなく、相手を活かすことである、とぼくは思うのです。だからこそ、フェミニストにとっても、オタクにとっても「まあこれくらいなら」という妥協点を探る作業は、必要なのではないでしょうか。

 

こうして書いてみると理不尽なことを言っている、と思います。ましてやフェミニスト諸兄にとってみれば「加害者」側であるぼくが言うべきではないのかもしれません。ですがぼくは「お前が間違っている!」と叫ぶことより「まあ我慢ならないところではないからいてやってもいいよ」と言うことの方が、よほど建設的な話のように感じられてならないのです。