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異物を煮込んだ異物のあり方-女性向け作品も好きであることについての雑感

散々話してきたので何を今さら、という話ですが、ぼくはオタクをしていて、作品それぞれが持っている中での「男性向け」「女性向け」のカテゴライズにあまり関心がありません。必然、それぞれのコンテンツに集まる他のオタクに対しても「男性」「女性」というより「オタク」という大きなくくりで見ることになるわけですが、いかんせんカテゴライズされたそれぞれに対して、男女のくくりを見出す人は多いように感じます。すなわち「こいつは女オタオタではないのか?」「この子、単なるオタサーの姫なんじゃないの?」という見方です。

「女オタオタ」「オタサーの姫」を批判する方々の周りにそれに類する存在が具体的に存在しているかどうかは別として、彼ら/彼女らが批判を受けがちである理由は「コンテンツへの愛情以外に価値観を置いている」ことであるということができるように思います。端的に言えば「純粋ではない」「コンテンツを違う目的で利用している」ということでしょう。仮に純粋な気持ちから人と会話していたとしても、目的がすり変わってしまった人として彼ら/彼女らは排斥されます。

 

彼ら/彼女らが、自分の所属する周囲以外から排斥されていくのに並行して、それを眺めている周囲であったぼくには「ぼくもこう見られるのではないか」という恐怖が芽生えました。極論を言えば、コンテンツに対する好意のあり方を規定するものなどどこにもありません。別に1人で見ればいいわけですし、自分の好意くらい自分で持っていればいい。こんなことで怖いと思う方がおかしいのです。それこそ、好きを何者かに規定される行為と言えるかもしれません。では、ぼくは何に恐怖を感じたのか。それは「好きなものを大きな声で好きと言えなくなること」ではないかと思うのです。

ぼくは「好きな気持ちを誰かと話す」ということがとても楽しいことであることを知っています。自分の好きなキャラクターの話をすること、他人の好きなキャラクターの話をすること、自分が持っていない「好き」の視点を知ること、それはとてもとても楽しいことです。そしてそれは1人でできないことです。アニソンDJをさせてもらう中で、ぼくは本当に色々な方と出会うようになりました。悲しいかな「オタサーの姫である」「女オタオタである」と言われて後ろ指を差される人ーーー彼ら/彼女らが事実そうであるかは置いておいてーーーとも出会いました。ぼくはその中で「そう言われてしまった瞬間に様々に一人歩きしていく『ぼく』が生まれる」「そう思われることで、本当であるはずの気持ちを話せる人・楽しいと思えるチャンスに出会う可能性は確実に減る」と感じて、怖い、と思ったのです。…誓って言いますが、別に1人でいたとしても今好きなものに出会ったならば、ぼくは好きになっていたことでしょう。ですが一方で、人と話せなくなる、ということはぼくにとって大きな恐怖です。だからこそそう思われないように振る舞おうとーーーできていたかどうかはわかりませんがーーーしたりしました。本当に好きであったとしても好きかどうか明言を避け、ふわっとしたところでモヤモヤと気持ちを抱えることにしたのです。

 

じゃあそれがなんで最近はペラペラとよくもまあ、という話なのですが、端的に言うと「疲れちゃった」の一言に尽きます。好きなものを好きと言わないことは、何かを嫌いになるのと同じかそれ以上にエネルギーを使います。そのエネルギー消費がもったいないな、と感じたので、好きなものはなんでも関係なく好きと言おう、ということを、特にうたプリ関連のことでよく思うようになりまして、最近は好きということにあまりためらいがありません(気をつけなきゃな、と思うことは多々ありますが)。

 

まあ、好きなものを好きであるということに躊躇う必要はないのだな、と思うのです。ありたい過ごし方を維持する努力は必要ですが、ありたい過ごし方を我慢する必要もないのかなと。それが他者を巻き込むことなのであれば、努力の必要性も高まるかとは思いますが、別にぼくがうたプリとか華Dollとか伊東健人とか宮野真守好きであって誰かに迷惑かけることなんて中々ないと思いますし。あと個人的な意見を申し上げるなら、コンテンツとして見る分にはまあ笑えますけど女オタオタはクソだしオタサーの姫もクソだし早いこと消えろとは思ってます。なんでおれがこんなビビらなきゃいけねえんだ!!!!(八つ当たり)

 

好きなものは好きに楽しめばいい、という当たり前のことを再認識するのに、馬鹿なぼくは随分と時間をかけてしまったなあ、というお話でした。それでは。